日本近代化のパイオニア 大鳥圭介

更新日:2022年02月03日

 明治維新後、日本の殖産興業の近代化に大きく貢献した大鳥圭介(おおとりけいすけ)について紹介

大鳥圭介公尊影(赤松小学校)の写真
中浜万次郎の写した幕府出仕の頃の写真

概略

 1832年2月28日 生 - 1911年6月15日 没
日本の西洋軍学者、幕臣、軍人、官僚、外交官。
正二位勲一等男爵。
家紋は鶴の丸。

 大鳥圭介公は、江戸時代末、飢饉と様々な病気の続く天保3(1832)年に、赤穂郡細念村小字石戸(現在の上郡岩木石戸地区)に医業を営む大鳥直輔の長男として生まれました。
 幼い時はやんちゃで、ガキ大将でしたが、医者兼漢学者の祖父純平の薫陶を受け、学問を志しました。
 岡山藩閑谷学校で5年間学び、祖父純平の様に漢学者になろうとしましたが、父のたっての願いで、赤穂の医師・中島意庵という西洋医の下で、二年間修業をしました。これが契機となり導かれて大阪の適塾、次で江戸の大木塾、江川塾で学びかつ教え、ついには幕臣旗本となりました。しかし、戊辰戦争で敗れ、二年半の間、入牢後、死罪を免れて明治新政府に仕えることとなりました。
 出牢後は、英蘭仏語ができる事を生かし、日本の殖産興業に尽力、同時に日本を背負って立つ大勢の人材を育てました。当時には珍しく八十の齢を重ね、今の日本の礎を築いたのでした。

(寄稿者:いきいき交流ふるさと館塾長 猪尾氏)

大鳥圭介(1832-1911)略歴

幕府時代

  • 1832 天保3年 0歳 細念村小字石戸(現上郡町岩木丙)にて誕生
  • 1845 弘化2年 13歳 閑谷学校
  • 1849 嘉永2年 17歳 赤穂・中島意庵のもとで医者修業
  • 1852 嘉永5年 20年 適塾(翌年黒船来航)
  • 1854 安政元年 22歳 大木塾(坪井塾)
  • 1857 安政4年 25歳 江川塾(教授に招聘)
  • 1865 慶応元年 33歳 幕臣 2年後 歩兵奉行
  • 1868 慶応4年 36歳 戊辰戦争 旧幕府軍として官軍に抵抗
  • 1869 明治2年 37歳 五稜郭で敗戦・入牢

明治新政府

  • 1872 明治5年 40歳 無罪放免 開拓使・大蔵省出仕、米英へ出張
  • 1875 明治8年 43歳 工部省 工学寮権頭(後、工部大学校校長)、兼、製作寮頭
  • 1876 明治9年 44歳 工部美術学校長
  • 1882 明治15年 50歳 元老院議員
  • 1886 明治19年 54歳 学習院長
  • 1887 明治20年 55歳 華族女学校長
  • 1889 明治22年 57歳 清国公使
  • 1893 明治26年 61歳 朝鮮国公使 兼任
  • 1894 明治27年 62歳 日清戦争 公使解任 枢密顧問官
  • 1895 明治28歳 63歳 勲1等瑞宝章
  • 1900 明治33年 68歳 華族・男爵位
  • 1903 明治36年 71歳 第5回内国勧業博覧会(大阪)審査総長
  • 1911 明治44年 79歳 没

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