上郡ゆかりの偉人
上郡町のゆかりの偉人の事績などを紹介しています。
名前 |
生没年 |
偉人の紹介・事績等 |
---|---|---|
重源 |
保安2年(1121年)~ |
平安時代末~鎌倉時代初期の僧。焼失した東大寺大仏殿復興の責任者。復興事業の一環として船坂峠を開削し、再整備するなど西日本の各地を開発。 |
赤松則村 |
建治3年(1277年)~ |
鎌倉時代末~南北朝時代の武将。鎌倉幕府の打倒~室町幕府の樹立に多大の貢献。白旗山に白旗城を築城。播磨国守護職に就く。苔縄に法雲寺を創建。 |
雪村友梅 |
正応3年(1290年)~ |
南北朝時代の禅僧。赤松氏に招かれて法雲寺・宝林寺の開山住持に就く。両寺は後、十刹に列せられる。 |
赤松則祐 |
応長元年(1311年)~ |
鎌倉時代末~南北朝時代の武将。赤松円心の三男。播磨・摂津・備前守護職として山陰の山名氏に対抗。禅律方頭人を務めるなど室町幕府の重鎮。河野原に宝林寺を移築・再建。覚安尼(千種姫)はその娘と伝えられる。 |
長治祐義 |
明和7年(1770年)~ |
江戸後期の歌人。山野里村の庄屋の傍ら、各地の名所旧跡を訪れ、多くの歌人と交流。歌集編纂にも関与。 |
三宅光能 |
安永6年(1777年)~ |
江戸後期の書家・教育者。上郡村に招かれ、寺子屋「正訓堂」を開く。没後、門弟達が上郡天満神社に筆塚を建立し顕彰。 |
隈川春雄 |
寛政3年(1791年)~ |
江戸後期の歌人。上郡村生まれ。長治祐義に和歌を学んだのち、加茂季鷹の養子となり和歌の研鑽につとめた。本姓は山口で、上郡を離れる際に隈川と改めた。秋香舎または柿廼屋と号した。弟・春蔭の遺稿を集め『志古草』を出版。 |
隈川春蔭 |
~ |
江戸後期の歌人。隅川春雄の実弟。生年は不詳。春雄とともに長治祐義や加茂季鷹に和歌を学ぶ。兄・春雄と和歌の研鑽に山陽道の各地を旅行するも、長崎で病のため没する。駒山と号した。 |
西脇亀仙 |
寛政7年(1795年)~ |
江戸後~明治初期の俳人。酒造業玉木屋二代目。上郡村庄屋として天保10(1839)・弘化3年(1846)の隈見橋架橋に尽力。 |
観音院観空 |
文化5年(1808年)~ |
幕末~明治の学者・教育者。金内村に寺子屋「観音院」を開く。明治2年(1869)に門弟達が金内に筆塚を建立し顕彰。 |
千種朝貫 |
文化12年(1815年)~ |
江戸末期の歌人・教育者。苔縄村の庄屋(里正長)の傍ら活動。没後、門弟達が法雲寺の門前に筆塚を建立し顕彰。 |
村尾よし |
明治6年(1873年)~ |
明治・大正期の教育者。女子の高等教育修学を目指し、明治35年(1902)に「村尾裁縫女学校」(上郡高等女学校の前身)を設立。 |
大鳥圭介 |
天保3年(1832年)~ |
幕末~明治の洋学者・軍人・技術官僚・外交官など。戊辰戦争では旧幕府軍の陸軍奉行。降伏後、明治政府の殖産興業の推進役を務め、日清戦争開戦時には公使として朝鮮との外交交渉にあたる。 |
大山郁夫 |
明治13年(1880年)~ |
大正・昭和期の社会運動家。政治学者として民主運動を実践するも弾圧され、戦時中は米国へ亡命。戦後は帰国して平和運動を行う。 |
原惣兵衛 |
明治24年(1891年)~ |
大正・昭和期の政治家。衆議院議員(当選6回)の後、姫路市長(昭和18~21年)を務める。戦後、姫路市・飾磨市外6町の大合併を行う。 |
安東聖空 |
明治26年(1893年)~ |
大正・昭和期の書家。かな書きの地位を画期的に高めた近代かな書壇の創成者。昭和55年文化功労者。 |
山崎剛平 |
明治34年(1901年)~ |
昭和期の文芸家。「砂子屋書房」を開き、太宰治など多くの新進作家を世に送り出し、昭和10年代の文壇をリード。 |
坂口神月 |
明治37年(1904年)~ |
昭和期の陶芸家。幼いころから滋賀県大津の紅葉館(現・ホテル紅葉)で働き、16歳から信楽焼の製作に携わる。終戦後、作陶に勤しむも昭和44年頃出家して山伏となる。姫路市円福寺には遺作が残る。 |
この記事に関するお問い合わせ先
上郡町
住所:678-1292
兵庫県赤穂郡上郡町大持278
電話番号:0791-52-1111
ファックス:0791-52-5172
更新日:2022年02月03日